サンパウロビエンナーレ講演「カタストロフィに就いて」1977年

サンパウロビエンナーレ講演「カタストロフィに就いて」1977年

日本の高名なシュールレアリストの老詩人であり、ノーベル賞候補者でもあった西脇順三郎は、かつて「芸術に置けるプリンシプルはなるべく単純な方がよい」といったことがあります。彼の場合、芸術とはこの面白くない世界を少しでも面白くするために、精神の中に小爆発を起こさせて、精神の中でカタコトと面白い水車でもまわして、 Esprit d’OMOSHIROIを楽しむことであると考えていたわけです。
もう大分昔のことですが、多分1950年代のはじめころ、私は西脇氏のその考えのように、「私の芸術に何か面白いプリンシプルを打ち立てよう。何か単純なプリンシプルを見つけてみよう」と考えたことがありました。そして四苦八苦の末に次のような単純なプリンシプルを発見したわけです。つまり「仏陀はわれわれのお尻の方から、団扇で、消滅せよ消滅せよとあおっている」と考えたわけです。
私がはじめてNIRVANAという言葉に、涅槃という言葉に着目したのはその時でした。サンスクリットでNIRVANAというのは火を吹き消すという意味だそうです。つまり火を吹きけしたように、物がなくなってしまうこと、つまり消滅することがニルヴァナの元の意味です。お釈迦様は右を下にして長々と横たわってネハンに入られた。この右を下にして横になられたことに深い意味がある訳です。左には心臓があります。心臓を下にして横たわれば、心臓を圧迫します。それを避けられたのです。ネハンと言えば、簡単に釈迦の死と思われていますが、そう思うムキの方は、おそらく死ぬのに心臓が下であろうと、上であろうと関係ないよというでしょうが、それが悲しい浅はかさ。ネハンと死とは全くちがうのです。微妙に全くちがうのです。このNIRVANAについては後ほどもう一度ふれて行きたいと思っています。

芸術の単純なプリンシプルということで私は先ほどの「仏陀はわれわれを団扇で消滅せよとあおっている」というプリンシプル、いやこれはプリンシプルではなく、仮説、ヒポテーゼ、ハイポテシスといった方がいいと思います。「仏陀はわれわれを団扇で消滅せよ消滅せよとあおっている」というひそみにならって芸術にちなんだ単純なプリンシプル、いや、これも芸術にちなんだ単純な仮説としておきましょう。「芸術は消滅する」という仮説を立てたのです。これも1950年代半ばのことでした。
なんでこんなことを話しているかといいますと、これが今日の講演のテーマの「カタストロフィー・アート破局芸術」の伏線になっている訳です。
さてもう一つの「芸術についての単純な仮説」—それは1960年代末に設定しました「最終美術」という概念です。これは「最終戦争」という概念とアナロジィをもつものです。人間は今まで沢山の戦争をやって来た。原始時代素手で武器も無く取っ組みあって戦った時以来、原爆、水爆、中性子爆弾の現代まで恐らく数えきれないほどの戦争をやって来た。が、若し人間がある時点でΩ戦争(これは仮称ですが)を戦って後、戦争を一切やらなくなると仮定したらどうだろう。その時のΩ戦争とはどんな戦争になるだろうか、どんな武器が使われるだろうか、その戦争後、世界はどうなるだろうか、ということです。せっかちに云ってしまいますと、中性子爆弾がその時の武器でしょう。つまり中性子爆弾は、建物や都市環境や人工物—机や椅子や芸術品や高速道路や橋や自動車やそれらを一切傷つけず、そのままにしておいてその中に居る人間だけを殺してしまうというものだからです。人間が一切居なくなって世界だけがそっくりそのまま残る。人間が作ったものがそっくりキズつかずに残されて、それを作った人間が一切居なくなる。この奇怪さ、おぞましさはどうだろうかと切実に思うものです。
ですから「カタストロフィー・アート 破局芸術」のもうひとつの伏線である「最終美術」とは何かといいますと、人類はアルタミラの洞窟に初めて絵画をえがいてきてこの方、沢山のものをえがき、あらゆる美術を作り、今個ここのビエンナーレ展に見られるような現代の美術表現をもっているわけですが、若し「最終美術」というものがあらわれて、丁度中性子爆弾が開発されたように、それを最後にして美術というものがなくなったらどうだろうか、という仮説です。どんな美術が「最終美術」の栄光をかち得るか。
ちなみに私は1969年以来(実際は70年)東京の美学校と称するあるアート・スクールで「最終美術思考工房」と称する教場をもち最終美術の開発に腐心している訳です。

さて「カタストロフィー・アート 破局芸術」が生まれる伏線をお話ししましたので、次に具体的に「カタストロフィー・アート」が生まれてきた経過をお話ししたいと思います。
皆さん、ここにこういう物があります。軽く手にのせられる、目方にして1030gの物です。これは1964年以来今日まで13年間の私の全作品です。各種の展覧会に出品したもの131点です。130番目は「D平面におけるプサイの部屋」あちらで今催されています「ポエジア・グラフィカ」展に出品されているもの。131番目は「九想の部屋」この「サンパウロ・ビエンナーレ」展に出品されているものです。恐らく世界で一番非物質的な作品であると思います。
1964年6月1日の夜半すぎ、いやむしろ払暁、私は睡眠中「オブジェを消せ」という声を聞きました。どういうことかといいますと、それ迄長年色と形による美術を描き物をつかっていわゆるオブジェを作っていましたが、
1961年以来私のオブジェ作品についての自注ともいうべき文章をあわせて展覧会に出品していたわけです。ですから1964年6月1日明け方の「オブジェを消せ」とは「文章だけの作品にせよ」ということ「文章だけの
美術作品を美術展に出品せよ」という声だったのです。私は三日三晩熟慮の末、その声に従い、以後は文章だけの美術作品をつくりつづけておる訳です。一種のコンセプチュアル・アート、概念芸術の発生のある現場のお話を聞いていただいたことになると思います。1964年6月4日でした。

さて1969年信州で「美術という幻想の終焉」展を催した私たちは、1970年の京都で「ニルヴァーナ・・・最終美術にむけて」という展覧会を催しました。これは文明、この物質文明の虚妄をマニフェストし、極度の非物質主義を標榜したもので、展覧会の初日は広大であった展示スペイスは2日目には2分の1となり、3日目にはそのまた3分の1になり、4日目には消滅してしまうというものでした。
1971年には「カタストロフィー・アート」の原型とも云うべき「音会〈ON-E〉」という集いを信州の山中でもちました。音会とは音の会と書きます一種の音楽会といいますか、ただし既成の楽器をつかわずに根源的な音を聞こうとしたものです。或る人は高い木と木の間に綱をわたし、そこに一晩中宙づりになっていました。或る人は樹の上に作った小屋と台の上で静かに遥か下にわずかに見える湖をながめ、遠い山脈を眺めやっていました。或る人は12日の断食を個々で完成させながら、なえた腕の力で弱々しく石をほって石笛をつくっていました。ここにいるクスノ兄弟もその時一緒で、ユージは1分に1枚づつの固定風景を記録にとりつづけていました。タカオは棺
の形に土をほってその中でわずかな呼吸をしながらまったく埋まっておりました。

「或る日突如として人類が破局を迎える朝がないだろうか。その日を予感して、それを恐れて、それを越えるために、それをおびきよせるために、人間は表現する。人はカタストロフィーをむかえるために表現する。人間とはカタストロフィーを背負った存在である。」という私の芸術に関する仮説と世界の現実の状況がカメラの二重像をぴったり重ねて焦点を合わせる、あのようにカタストロフィーが、世界のカタストロフィーが鮮明に見えてきた。薄気味の悪さを覚えつつ。1972年には「カタストロフィー・アート」展をミラノのサン・フェデーレ画廊と東京のピナール画廊で催した。地球のあちらとこちらの同時展であった。
その時の私の三つの作品は:危機儀(A Crisis Ritual)
                   緊急提案 (An Urgent Proposal)
                 破局戒 (A Catastrophe Encouragement)
と称するものであった訳です。
        一日一回正午に人類よ大声で泣き叫べよ
        人類よ今から金輪際つくらないでおこう
        人類よ消滅しよう 行こう 行こう
という文章による提示であった訳です。

その後同種のものが同じカタストロフィー・アートのタイトルで、ブエノスアイレスのCayc、当サンパウロ市のMAC、カナダのカルガリー市のパラシュート・センター、モントリオールのヴイクル・アートを巡回し、さらに北米の各地を巡回しようとしています。
ヨーロッパにおいても、ヘルシンキを出発してHead Museumとしてヨーロッパ各地を巡回しつつ作品を新陳代謝(Metabolism)して紀元2000年にはそれがルーブル美術館へなだれこもうとしている一群のカタストロフィー・アートがあります。この第14回サンパウロ・ビエンナーレ展にもカタストロフィー・アートのセクションがあります。

私は1974年の京都でのシグニファイング(意味化)展に「芸術のパリティ則」という作品を出品しました。
    1 芸術は平等でなければならぬ
    2 芸術は平等のためになければならぬ
    3 芸術は平等そのものと化さねばならぬ
という単純なテーゼです。
私はこのビエンナーレの全作品はどれもこれも等価であると思います。私は私の作品以外のどの作品をも、あたかも私の作品であるかのように観ずることができます。そのどのひとつひとつも私の作品と同じに大事で、なくかしく、したしく、人ごとでなく感ずることができます。私はどの作品の精神をも共有したいと切に望んでいます。

私は私のカタストロフィー・アートについての講演をこのような突飛な話でカタストロフィックに終わろうと思います。御静聴ありがとうござざいました。


以上は松澤宥が1977年サンパウロ・ビエンナーレで行った講演の書き起こしである。この年松澤はビエンナーレ賞を受賞。
松澤が展示した「九想の室」は、松澤を含む21人のアーティストの行為の写真を展示したものである。21人は以下の通り:
芦沢タイイ、池田龍雄、糸井寛二、風倉匠、金子昭二、河津紘、楠野タカオ、栗山邦正、小林起一、斎藤俊徳、宿沢育夫、ステラーク、春原敏之、赤土類、田中孝道、辻村和子、古沢宅、水上旬、水谷勇夫、松澤宥

 

2016/12/12 shimada