虚空間のコミューン – 松澤宥のめざしたもの
嶋田美子
はじめに
松澤宥について一般的によく言われるのは、日本概念芸術の始祖であり、その作品が難解だということだ。しかし「難解な概念芸術」という言葉だけが一人歩きし、松澤の芸術を考えること自体を放棄する言い訳となってはいないだろうか。松澤の作品は他者とのコミュニケーションを目指したものであり、虚心に見ていけば決してわかりにくいものではない。本稿ではその「概念」とはいったいどのような途を経て生まれたものかをできるだけ客観的に記述し、松澤芸術をより深く考える契機としたい。
松澤宥(1922−2006)の作品群は大きく次の3つの時代に分けることができる。
1) 初期(1950年代—63年)詩、絵画、オブジェ
2)中期(1964−87年)文字作品、ニルヴァーナ・コミューン
3)後期(1988−2006年)量子芸術論、80年問題
松澤は生涯下諏訪の自宅を拠点としたが、特に初期、中期の作品には諏訪の自然、地史に関連したものも多い。また、中期には諏訪を中心とし、世界に拡大する「精神のコミューン」の創造を目指した。
初期
生誕—学生時代—戦争
松澤宥は1922年2月22日、下諏訪の旧家の長男として生まれた。2という数字に生涯こだわったのはこの生年月日による。自宅は中山道に面した諏訪大社秋宮近くにあり、御柱を始め祭りや年中行事に深い関心を持っていた。初期の絵画作品に見られる「御幣」の形をはじめ、諏訪湖、泉水入瞑想台、フォッサマグナ、七島八島高原など、諏訪の地に由来するキーワードは松澤作品の随所に見られる。
諏訪中学校(現諏訪清陵高校)を卒業後、1942年早稲田大学理工学部建築科に入学した松澤は、理科系だったゆえに徴兵を免除された。戦中は京都、奈良の寺社を巡り、パステルの美しい素描や私家版の詩集など、世の中の破壊や熱狂とは隔絶した作品を創った。 戦争末期には新潟の日本曹達に動員されたが、7月に無断で職場離脱し、諏訪に帰郷した。これは当時重大な違反行為だったが、騒ぎになる前に終戦となった。この戦時体験がのちの松澤の世界に対する「憂い」の基盤になっている、と美学校[i]松澤宥最終美術思考工房元生徒の伊丹裕は証言している。[ii]
詩、絵画
戦後早稲田を卒業した松澤は、 卒業式謝恩会で「私は鉄とコンクリートの固さを信じない、魂の建築、無形の建築、見えない建築をしたい」と発言した。その後東京の米軍基地施設の建築に関わるが、間もなく帰省して辞職。諏訪の家は既に家業(製糸業)を廃業しており、1949年4月より諏訪実業高校定時制下諏訪分校で数学を教え始める。この頃より詩作に力を入れ、50年には草飼稔とともに「RATIの会」を立ち上げ、諏訪で「前衛芸術の夕」(図1)を開催した。これは詩朗読のみならず、音楽、ファッションショーなどを含む総合舞台芸術で、具体の舞台芸術にも先んじ、当時としては非常に先鋭的なものだった。松澤の詩は戦前からの叙情詩とシュールレアリスムの影響のもとにあったが、52年ETC(シカゴ一般意味論協会機関紙)の購読をはじめた頃より徐々に記号に近づいていく。
また、パステル画を中心とした絵画作品もこの頃には抽象化し、素材、色、マチエールの実験を重ねた。松澤は専門的な美術教育は受けていないが、その理工学的な素養もあり、素材の自作、化学実験のようなマチエール作りなどの試行錯誤の末、堅牢で重厚感のあるマチエールを得た。(図2)また、その色も今泉省彦が「大変な色彩家」[iii]と称したとおり、パステルカラーから鈍く光る金属的な暗色まで、非常に深みと幅のある色彩感覚にあふれている。阿部展也も松澤の絵画作品に注目し、1953年には文化協会会員に推挙している。多くの画家は、このレベルの作風を確立した時点でそこに留まったであろう。しかし、松澤の創造はそこで満足するものではなかった。
渡米
1955年、松澤はフルブライト研究員として渡米する。当初はウィスコンシン、のちにニューヨークに約2年滞在し、「美の客観的測定法」を研究課題とした。当時ニューヨークは抽象表現主義最盛期だったが、松澤がこれらに影響を受けた痕跡は見つかっていない。現代音楽の始祖であるジョン・ケージに興味を持ち、訪問を予定していたが、これも結局は実現しなかった。松澤がニューヨークで熱中したのは、毎晩深夜のニュージャージ州WOR局での超科学、超宗教、UFOなどに関する放送だった。この体験は重要な転機となるもので、以来松澤は「目に見えない世界」の探求へと進んでいく。これはいわゆる「オカルト指向、現実逃避」ととられてしまいがちだが、ヨシダ・ヨシエの言うように、松澤のアプローチは常に科学的、論理的であり、[iv]宗教やオカルトへの盲目的信奉とは無縁だった。密教、マンダラの研究も、宗教としてよりもその世界観の表象が基である。松澤の「目に見えない世界」への興味は、この現実社会からの逃避ではなく、むしろ、物質社会の現状を憂い、そのオルタナティブとしての「見えない世界」の可能性を考えるためのものだった。そして、松澤にとっての芸術は物質中心主義から人間の意識を改革するための「方便」であった。
中期
1964年「オブジェを消せ」
1957年、米国から帰国後も松澤は読売アンデパンダンを中心に絵画、オブジェの作品を発表した。そのテーマ、タイトルにも「テレパシー」「パラサイコロジィ」など、ニューヨークで培った「見えない世界」への興味の影響がみられる。また、60年以降作品に言葉による表現が採られるようになり、「プサイの函」(61年)では「プサイ函に就いて」と題されたパンフレットがオブジェと同様の「作品」とされた。
1964年6月1日「オブジェを消せ」との声を聞き、3日考えたあげくにそれ以後文字だけを使って表現しようと決意したーということは本人が後年頻繁に言及していたこともあり、一般的にはこれを機として日本概念芸術が始められたとされる。しかし、これ以後いわゆる絵画やオブジェを作ることはやめたとはいえ、前述のように文字による作品は60年頃から発表しているし、それ以前の詩にも「文字、記号による作品」と言ってもいいものもある。しかるに、この「オブジェを消せ」は64年以前の作品の全否定ではなく、むしろ50年代からの思考の延長線上にあり、その表現方法として、詩(言語、記号)—抽象絵画(色、形、マチエール)—オブジェ(物質)など、多くのメディアの実験を重ねた末に言語に立ち戻った、と考える方がいいのではないか。そもそも松澤にとって詩や絵画を作ることは、それ自体が最終目的なのではなく、松澤の世界観、思想を伝達するための手段であった。それらは文字通り世界(虚空世界を含む)の中で人々をつなぐ媒体であり、その最も明確な手段として言語を採用したのが64年以後である。媒体の純化はあったが、思想(概念)そのものが変わったわけではなく、ここでいきなり全く新たな「概念芸術」が生まれたのではない。66年の代表作「人類よ消滅しよう」の幟(図3)も、それ自体を巨大なオブジェと見ることもできる。しかしそのような美術的形式論を越えてそこに現出するのは「消滅」のメッセージであり、それは現実を冷徹に見つめた上でそこから出発しようという松澤の決意表明である。
ニルヴァーナ、音会、世界蜂起
1966年より松澤は「ハガキ絵画」(図4)と称する郵送による作品を友人たちに発送している。郵送による作品のやり取り全体を「メールアート」と称するが、松澤のメールアートは70年代から80年代に流行したアートの一形式としてのそれとは異なり、郵送という形式自体が重要なのではなく、概念のやり取りによる「見えない世界」の可視化、精神的共同体の構築が最重要課題であった。1970年に松澤が企画した「ニルヴァーナ」展(京都市美術館)はこれまでの所謂美術作品とは全く違う、物質性を排除した「フリー・アート」(図5)の展覧会であり、参加者(海外作家含む)はそれぞれの概念を文字や映像にして郵送した。71年に開始したメールアート「世界蜂起」は、欧米をはじめ南米、豪州など世界的規模の広がりを持つようになった。松澤は諏訪の自宅を「虚空間状況探知センター」と名付けたが、この日本の地方都市の個人宅が世界中に広がる概念芸術のネットワークの中心となったのである。
そのネットワークの核ともいうべき場が松澤家所有の山中、泉水入「瞑想台」(図6)である。ここにはニルヴァーナ展以来松澤と親交を深めたアーティスト(春原敏之、田中孝道、芦沢タイイ、水上旬、金子昭二、古沢宅、赤土類、河津紘、小林起一ら)や美術評論家(ヨシダ・ヨシエ、滝口修造)、映像作家(かわなかのぶひろ)らが集い、「音会」(71年)「雪の会座」(72年)と名付けたコンサート/イベントを開いた。これは各人がそれぞれ身体表現や儀式を行いながら、しかもつかの間の共同体としてお互い共感し合い、共通の方向性を持つものだった。これは松澤の理想とした「フリー・コミューン」(図7)の実践であり、感覚から精神や想像力に至る機能を可能なかぎり開こうとする試みであった。
グローバルな活動
松澤は70年代以後欧州や南米で精力的に活動し、むしろ海外で高く評価されている。76年にはヴェニス・ビエンナーレ、77年と79年にはサン・パウロ・ビエンナーレに招聘された。また、松澤は日本の概念芸術を海外に紹介する展覧会も多く企画している。72、74年には「カタストロフィー・アート」展をミラノ、ブエノスアイレスで開催、76年にはメルボルンで「今」展をステラークと共同企画、同年に「7人のイタリア人作家と7人の日本人作家」展をイタリア文化会館で企画。また、77年 にはポーランドの画廊で「東方から」と題した日本現代美術紹介の展覧会も企画した。これらの展覧会には松澤自身と、ニルヴァーナの作家をはじめ、菅木志雄、高松次郎、池田龍雄、PLAY、藤原和道、風倉匠、河口龍夫らが参加している。これらの松澤によるキュレーションは日本の美術界でほとんど知られていないが、アーティストのイニシアティブにより、公的な援助も受けずに当時「辺境」ともいえる南米や東欧などに日本の現代美術の最先端を伝えた松澤の業績はもっと評価されてしかるべきであろう。
後期・結語
量子芸術論・80年問題
80年代に入っても松澤は欧州などで精力的にパフォーマンスなどを行うが、個人での発表が多くなり、ニルヴァーナ・コミューンを中心とした活動から離れていく。80年代後半からは「量子芸術論」を発表し、それがのちに「80年問題」へと深化して行く。松澤にとってこの量子芸術の発見は非常に重大な転機であり、以後作品は思想的に新たな進化を遂げた。しかしながらこの時代について論じるには字数が尽きた上、私はこれに関して専門知識を持たない。生半可の解説よりもむしろ、今回の展覧会に展示されている「量子芸術宣言」(1992年)を精読されることをすすめたい。
2022年は松澤生誕100年となる。松澤が生涯をかけて追求したのは、この物質世界の有限性(死)を認識しながら、わたしたちは現在、未来の生をどのように生き、世界を変えていけるのかということだった。
「人類消滅」の予言が現実性を帯びつつある今、松澤の提示した概念を再考することは優れて今日的な問題であろう。